2016年2月5日金曜日

ニラサワの事。





















むかしむかし「未来忍者」って映画のスタッフだった時
小林誠さんから送り込まれてきた若僧がいました。

若僧といってもタケヤとオレとおないどしで。
つまりは3人ともぺーぺーの若僧だった時代に知り合った。
どんな話したとか覚えてないけど初対面からオレをみて
「あんた、だれだれさんに似てるわ!」と
当時特撮雑誌の「宇宙船」とかで名前をおみかけする
ライターの方の名前を出してきたが、こちらは面識が
ない方なので「へー、そう」としか言えなかったわけです。
「いやー似てる似てるそっくり!」となおも続けるその若僧
こそが、のちに韮沢靖となる男だったのです。
いや当時から韮沢靖だったけど。

なにぶん30年近い昔の事で、それ以降のことは
ぼんやりとしか覚えてないけど、その頃オレは東高円寺、
タケヤは高円寺、ニラサワは野方にいて、まあ近所なので
タケヤの作業場にしょっちゅう入り浸っては、あの怪人が
いいとか、あのクリーチャーデザインはダメだとかやってた。
そりゃあ、なーんにも考えないで好きなものの話だけしてた
なんにもない三人組だったのです。

そのうちホビージャパンの別冊でSMHって雑誌ができて
ニラサワとタケヤはそこの常連になって作品作り出して
あれよあれよとそのスジでは名を馳せるわけです。
今でもアメリカの造型のスタジオとかに行くと
SMHのバックナンバー置いてあって、ふたりのファンが
いっぱいいる。NIKEのCEOのマーク・パーカーさんも
いまもSMHの話をよくするくらいで、その影響は大きい。

でも当時は当時で「スティーブワンの造型やべえ」とか
騒ぎながら「オレならこうする」魂炸裂でニラサワは
作ってたわけで、物作りの影響とはまさに寄せては返す
波のごとく、対岸から対岸、反射して、拡散して。

大きな流れのなかで、ニラサワもタケヤもオレも
「じぶんの好きなこと」に無我夢中でやってきたら
50歳越えてて。いっぱしの顔で仕事できるように
なってきたなーって矢先ですよ。

ニラサワが1月末にぶっ倒れたって話聞いて慌てて。
慌てたけど、まあアレはしぶといでしょう、と高をくくって
たら、挨拶もなしに逝くという荒技で。

最後の最後、タケヤとオレはなんとかニラサワに会えました。
いわゆるなんか寝てるみたいな顔でそこにいて
思わずひっぱたきそうになりましたよ。
オマエそんなかっこわるい棺桶とかじゃねえだろうと思った。
いますぐ起き上がって、いつものニラサワ節の禍々しいやつ
デザインしてから死んでくれよ。
ぼんやり、そんなことを考えながら顔みてたんですが
気がつくと灰になっちゃってて。

いやーニラサワ、さみしいなあ。
タケヤもオマエもオレもいつもなぜか近所に住んでるもんだから
ひょいとママチャリにまたがったオマエが
モスバーガーのとこでこっち見つけて
右手をスチャっとあげてニヤッと笑いながら
「かつくん!どこいくん!?」って言ってくれるのを
しばらくは期待してしまいそうですよ。
まいったまいった。

そんなわけで享年52歳、稀代のクリーチャー好き韮沢靖は
この世から去りました。
オレは92歳くらいまでは絵を描いて生きていくつもりなので
悪いけど次会うのは40年後だ。
またね。